過去の裁判も色あせない面白さ
よくよく見てみると、過去に起こった企業の裁判などを見てみると、本当に記者会見で、偉い人たちが頭を下げてたいへんだなと感じます。
その頭の下げ具合や角度によって本当に謝っているかどうかも何となくわかりますし、記者会見の時に泣いている姿やお詫びを言っている姿というのは、時には胸を打つものもありますし、中にはしらけてしまうものもあります。
それが裁判になると本当に滑稽に感じたり、すごく関心を持ってみてしまうものもあります。
一方で、個人のユニークな事件なども本当に面白いものが多いです。こんなことで実際に事件になったのか、本当にこれは現実に起こったことなのかなど、思ってしまうものも沢山あります。
どちらが被告なのかわからないような物もありますし、余りにも馬鹿らしいようなことで裁判になって、むしろ関係者が気の毒だなと思うこともあります。
中には身内のもめ事が発展したりして裁判になっている場合もありますが、他人の力を借りなければ解決できないのかと思うほどバカバカしい事も起こっています。
でもこういうことって言うのは、本当に話題になっているというか、そういうことを話題にしていること自体が平和なのかもしれません。
もっと世の中が世知辛い状態であったり、楽しみもなく閉塞感があったときなどはそのようなことは感じないかもしれません。
しかし、ユニークさを感じたり、企業が頭を下げているのを客観的に見ているということは、それだけ私たちが平和なんだとも思います。
ニュースに釘付けになっているわけではないのですが、たわいのない会話でこういったことがみんなの前で話をできるというか、これはある意味幸せだと思います。
でもやっぱり一番大変なのは、原告被告ではなく、裁判長ではないでしょうか。
こんなこと判決しなければいけないのかと思う事件から、普通に判断すれば社会的な影響も大きく、勝訴にしたくてもできないものや敗訴にしても結果的には勝訴みたいになってしまうような事件もあるわけですから大変だと思います。
事情判決や事情裁決といったものがまさか私たちに採り上げられるなんて思いもしないのではないでしょうか。
現在起こっている事件よりかなり前の過去のことについても、いまだに語られるユニークものは、いつの時代になっても色あせないものなんです。
それに大の大人が集まり真剣に話し合ってる姿というのは、本当に滑稽だと思います。だから話題になるのでしょう。